South Island(癒しの楽園)

南の島(South Island)に憧憬と哀悼の感情を持って、癒しの楽園を探して、日々の日記を綴る。 中島栄次郎、ならびに、戦没者に哀悼の意を表します。癒しの楽園は、どこにあるのかわからないが、いつか、生きとし生けるもの、死せるものが、癒しの楽園に辿りつけますように。 ☆☆☆注) 中島栄次郎は、小生の母の叔父になります。母と母の妹が、中島栄次郎の著作物を自費出版したのが、『中島栄次郎著作選』です。中島栄次郎は、京都大学の田辺元のもとで、『ニイチェの研究』をしていました。大学の同期には、 松下武雄、久野収がいました。1年上の先輩には野田又夫がおられ、 中島栄次郎のライバルでした。当時、毎日新聞の文芸評論を書いていました。そのときの担当記者が、井上靖でした。後に井上靖は小説家になられました。中島栄次郎は、『コギト』の同人で、伊東静雄、田中克己たちとも交流がありました。 中島栄次郎は、戦時中は、統制化にあり、自由にものを書くことができませんでした。中島栄次郎は、一兵卒として、フィリピンのルソン島マニラ郊外の山地で戦死しました。☆

2007年07月

伊東静雄の書簡三三一

 お手紙ありがとうございました。公報参りました由、大毎の井上靖氏より既に通知があり存知じ上げてをりました。いよいよ決定的な報知のあったことを知り、万一を期待してゐました私は、長大息いたしました。私、半生の中の最も立派な友人を失ったのでございます。中島さんは私の文学の先生と申していい方で、私はどれほど頼りにして導かれて参ったことでせう。しかも、お手紙にありましたやうに、私の作品の一番信頼するに足る批評家と存じてをりました。詩を書き初めましたころは、中島さんの批評の一言一言を、どんなに喜び落胆を以ていたことでせう。その上私共は性格の一致と理解がありました。いつも、ひかへ目に、にこにこしてをられた中島さんを、どれほど親しみぶかく、なつかしく敬愛していたことでせう。この戦争で生き残ったわれわれは人悪く、小ざかしい気が自分でするのでございます。一流の才能を有った友人をわたしは失ったわけです。
 も一人私は蓮田善明君といふ、いい友人をこの戦争でなくしました。同君は昭南で自殺したのださうです。
 この二人のかけがへのない友人をなくして、私はほんとうに孤独な感じがいたします(特に文学の上で)。もう私は四三歳で、この後新しい友人の出来ることは全然期待出来ぬ年齢でありますので、その感が一層深いわけです。
 中島さんの遺作のことで話し合ひたいといふ井上氏からの通知がありましたので、大毎に参りましたが、二回とも面会出来ませんでした。近日中に是非合ってみたいと思ひます。今日田中克己さんから、養徳社で出版の計画ある由をききまして、ほんたうにうれしくございました。是非その内、昔の友人ら集まって、思出の催したいものだと田中さんも言つてをられます。私もそれを熱望いたします。心には色々思つてゐますもののその日その日の生活の重荷によろめいてゐて、御遺族をお見舞することもなく、何のお力になることも出来ず、実にはづかしく存じます。
 どうぞ、御健康でゐて下さい。少しでも平安でいらつしやることを祈らずにはをられません。
  一月ニ十四日               伊東静雄
  中島明子様
(昭和ニ三年一月ニ十四日)
(人文書院「定本伊東静雄全集」書簡三三一)

「冬日感懐」(中島栄次郎)

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冬日感懐

冬の陽のただしきこころ
縁に出てわれは思いぬ
  思いわび静かに生ける
  この金魚あかきがままに
  夏を越し秋を過せし
  この魚の黙せるこころ
遠き日のいよいよ遠くに
遠きやま涙たれたり
  陽のひかり松の梢は
  疎らにて風は通れり
  なべてみな著きものなく
  陽はただにただに堪へたり
冬の陽のただしきこころ
縁に出てわれは思いぬ

(中島栄次郎、昭和14年2月「コギト」第81号)

07年7月15日(日、「中島栄次郎の崇高論」)

手元にある中島栄次郎について書かれた本などを読んでいました。

『保田与重郎論』(神谷忠孝著)(雁書館)の中の「中島栄次郎の評論」と『シェリング哲学の逆説』(菅原潤著)(北樹出版)の中の「中島栄次郎の崇高論」などを読んでました。

菅原潤先生より、以前『中島栄次郎著作選』を頂きたいとのことで、メールが来て、お送りしたところ、『シェリング哲学の逆説』を送っていただきました。
一度、お電話で、お聞きしたところ、現在でも、中島栄次郎と同じようなことを考えて研究している人がいるとのことでした。
送っていただいた本の中にそのようなことも書いてありました。

まだ、全部読んでないし、専門でもないのですが、時代の流れ上シェストフ的不安が本に出ていたのだと思いますが、中島はそれより以前にニーチェに影響されたのは明らかだと思います。

菅原潤先生は、専門はドイツ観念論ですが、副専攻として雑誌
『コギト』関係の作家の研究をされているようです。

中島栄次郎が、『コギト』や近代文学や哲学の研究で、再評価されているのだと思いました。

なぜ、中島が、ニーチェで、論文を書けなかったか、なんとなく、わかったような気がします。

昭和7年:「創作ー自然主義と浪漫主義」(中島)
昭和8年:「リベラリズムと文学の功罪(三つの感想)」(中島)
昭和9年:「カントに於ける芸術の問題」(中島)
      「シェリングに於ける構想力の問題」(松下武雄)
      「ニーチェと現代」(中島)
昭和10年:「浪漫化の機能」(中島)
       「生けるユダ(シェストフ論)」(亀井勝一郎)

07年7月14日(土)

友人K氏宅に遊びに行った。
最近、引っ越したばかりだということである。
最近のハイテクマンションは、こんな感じなのかと体験できた。
駐車場のドアは、リモコンで開き、トイレの照明は、センサーで自動的にON/OFFできるようになっていた。
テレビは、2011年対応の共同アンテナになっていた。
帰り、最寄の駅で、飲んでいた。
大きな駅であった。
9月の旅行の話や詩吟の話などいろいろ話していた。
参考になった。
帰り、友人は、今日BSで、五つの赤い風船を見ると言っていた。
きっと、テレビを見ながら、歌ったのであろう。

07年7月8日(日、「浪曼化の機能」(中島栄次郎))

「日本浪曼派」集 (文庫) (中島栄次郎著)という本が、出版されていたので、本屋に行き見たのですが、買わずに帰って来ました。

中島栄次郎著の本が出版されたのかと勘違いしたのですが、中島栄次郎は、複雑な思いなのではないかと思います。
本人は、哲学者なので、哲学か、思想の本をこの世に残したかったのではないかと思います。

今日、お昼に「日本浪曼派」の巻頭「浪曼化の機能」(昭和10年)を読んでました。
「日本浪曼派」の役割というか、目標についての思索が書いてありました。

中島栄次郎は、当初は、「日本浪曼派」に賛同していたと思いますが、「日本浪曼派」には、2回(昭和10年)くらいしか、書いてません。

『文学・昭和十年代を聞く』の中の久野収の「中島栄次郎の保田与重郎批判」がありますので、「日本浪曼派」は、当初の自分の理想とは、かけ離れて来たのだと思います。

保田は、将校として、従軍し、帰国。
中島は、戦争に反対だったので、将校にならず、一兵卒として従軍。
中島は、翻訳ができたので、将校付で、将校と共に戦死。
他の何人かの兵卒は、山で置き去りにされ、帰国。
中島は、兵卒で、字の書けない人の手紙の代筆などもしていたそうである。

昭和12年〜20年:日中戦争
昭和15年:日独伊三国軍事同盟
昭和14年〜20年:第二次世界大戦
昭和12年:第34、38、39代内閣総理大臣近衛文麿
昭和16年:第40代内閣総理大臣東条英機
    「生きて虜囚の辱を受けず」(第二次世界大戦の「戦陣訓」にあった軍律――軍のオキテ)

昭和10年:「浪漫化の機能」(中島)
「日本浪曼派」集 (文庫) (中島栄次郎著)
文学的立場編『文学・昭和十年代を聞く』(久野収の「中島栄次郎の保田与重郎批判」)
日本浪曼派批判序説 (橋川文三著)(講談社文芸文庫)
中島栄次郎 年譜

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