Zjy_fyfg
忘れ得ぬ人々(井上靖)

義理の弟が、古本屋で見つけた本です。
この本に中島栄次郎のことが載っています。
これを紹介致します。

人と風土(−文学自伝ー)(から引用しました。)(P304〜P305)

 新聞記者になって大阪へ住むようになってよかったと思う
ことは、そこで何人かの詩人たちと知り合いになったことで
ある。安西冬衛、竹中郁、小野十三郎、野間宏、杉山平一の
諸氏である。私はまるで違った資質を持ったこれらの人たち
から、専ら言葉に対する感覚の上で全く違ったものを教えら
れている。
 それから故人であるが、伊東静雄と中島栄次郎の両氏と知
合ったことで、自分もまた文学の仕事をしようとする勇気を
与えられたように思う。
 伊東静雄の詩集は今でも時々繙(ひもと)いてみるが、曾
てそれを読んだ時の驚きや怖れを、いまもそのまま思い出す
ことができる。詩的真実というものがいかなるものであるか
を、伊東氏の幾つかの作品から知ったことは、私にとっては
大きなことであった。
 私は、処女作の『猟銃』を書いた時、それを人を介して佐
藤春夫氏に読んでいただき、そうしたことで佐藤春夫氏にお
目にかかる機会を持ったが、その日、自宅へ帰って机に向い
、蝉の声を聞いているうちに、めまいと嘔吐感を感じて、そ
の場に俯伏した。この時私はふと伊東静雄の『庭の蝉』とい
った詩の一節を思い出した。それには蝉の声の中に、一種前
世の思いとめまいを伴う嘔吐感があることを指摘してあっ
た。私は自分の作品を佐藤春夫氏に読んでいただいた昂奮の
中で、何とも言えず伊東静雄を懐かしく思った。その時の氏
に対する親近感は、自分ながら異常に思わるほで烈しいもの
であった。
 中島栄次郎は、ニイチェの研究家で、コギトの同人でもあ
り、当時の若い文芸批評家として一部に知られていた。私は
初め新聞記者として彼に会ったが。その後彼の頻繁な来訪を
受けて、二人のつき合いはかなり深いものになった。野間宏
を除けば、中島栄次郎が大阪時代に於ける文学に関係した人
での唯一の友人であったと言っていい。
 私はいつも喫茶店で彼と話し、彼の話からここに言い現せ
ないような沢山のものを貰った。氏が戦死したことを夫人の
手紙で知った時、私はひどく落胆した。もう自分に小説を書
けと言ってくれる人はこの世ではなくなってしまったという
淋しさであった。私は中島栄次郎の書くものからは何の影響
も受けなかったが、彼に依って小説を書く以外、もうこの世
に何の面白い仕事もないのだということを知らされ、自分も
またいつかはそれを書いてみようかという気持をひき起され
たのであった。彼と会わなかったら、私は小説を書きたくは
あったが、筆を執ってみようという気持を持ったかどうか
甚だ疑わしいと思う。

               (昭和三十四年十一月)