今日は誰にも話しかけてくれるな。私は喪に服している。
中島栄次郎が南の島で戦死してから三十七年、高安敬義
が大陸で戦死してから、この方は三十八年であろうか。
私より幾つか年少の二人の優れた友が、今晩、往年の若さ
のままで、私の書斎の戸を叩いてくれたのだ。
中島は大阪の新聞社の傍の小さい喫茶店で、カントの幾つ
かの言葉について語り、そして”では”と言って椅子をあ
とにひいた。高安の方は茨木の私の家で、哲学雑誌に載せ
た己が「倫論」の一部を読んで、そして暗い夜道を帰って
行った。それが二人との別れ。それから茫々三十余年。
私は終日、秋の気の深まる音のようなものの中に身を置い
ている。二人の友が最期に上げたであろう一本の手を瞼に
浮かべている。その手をめぐって何ものかが流れている。
粒子のようなものが、霧のようなものが、しんしんと流れ
ている。私は、今日一日、思いをそこからはなさないでい
たいのだ。私はいつか迂闊にも、二人の友の倍の年齢を生
きてしまっている。