9月7日(水)の「その時歴史が動いた」で「平家はなぜ滅
亡したのか」を放送してたのを見ました。

後白河法皇側と平家側から見た説の紹介と番組で、「身から
出た錆(さび)」と「窮鼠(きゅうそ)猫をかむ」のどちら
かを視聴者が携帯電話で、投票して、集計結果を番組の最後
に発表してました。

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○「通説」について(上田アナウンサーの論拠「身から出た錆」)
◆「武士の貴族化」…一般に平家のイメージとして考えられている。
番組では、事前に不特定の方々に「平家はなぜ滅亡したか」
という問いを投げかけたところ、ほとんどの方がこのことを
指摘した。
◆「傲慢」…上記に同じ。また、『平家物語』に記される
「おごれる人も久しからず」「平家にあらずんば人にあら
ず」を指摘する方も多かった。
◆「新王朝の野望」…治承3(1179)年11月の、いわゆる
「治承3年のクーデター」以降、高倉天皇の譲位・院政、安
徳天皇の即位、福原遷都を指して、平家系の王朝を確立した
ことを指す。これらは、研究者によって意見が分かれるとこ
ろもある。京の都の旧体制から離れるためのものであったと
いう指摘と自ら能動的に行動したという説もある。今回番組
では、各書物、研究者への取材を通して後者の能動的な意見
が多いと判断した。

○「新説」について(松平キャスターの論拠「窮鼠猫をかむ」)
◆「軍事貴族」…歴史学会ではほぼ承認されている考え方。
武士が貴族になったのではなく、軍事を家の職業とする貴族
であった。平家の場合、桓武天皇の血を引く貴族として臣下
に下った。その後、拠点を関東、伊賀・伊勢などに変えつ
つ、清盛の祖父・正盛の時代に白河院政に仕え、京での足が
かりをつかむ。祖父の時代には、貴族にさぶらう存在であっ
たのかどうか、グレーな部分も多いが、清盛の父・忠盛の時
代になると、殿上人(ある種の特権階級)になるなど、その
地位は高いものであった。清盛は、さぶらう存在としてのし
上がったのではなく、祖父・父の基盤の基、12歳(数え)
の時から貴族の地位にいた。
◆「窮地」…後白河法皇が清盛の娘・徳子の入内を進めたと
いう説は、研究者への取材を基に紹介している。又、法皇が
清盛(平家)への心変わりをしたことについても、研究者の
「皇位継承問題」の説をもとに、後白河法皇の歴史を読み解
き、状況証拠と推測を交え、院政維持の考えを示した。さら
に、平家一門の分散についても、研究者への取材を基に紹介している。
◆「一門の存亡」…徳子の入内、皇子(後の安徳天皇)の出
産により、清盛が政治的な野望を抱いたということは、状況
証拠により高い可能性がある。しかし、その具体的な行動と
して表れた「クーデター」への道筋を検討すると、この説が
浮かび上がる。研究者への取材をもとにしている。政治的生
命が奪われる中、築き上げた地位の保持のためという考え方である。
NHKのHPより引用)

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