South Island(癒しの楽園)

南の島(South Island)に憧憬と哀悼の感情を持って、癒しの楽園を探して、日々の日記を綴る。 中島栄次郎、ならびに、戦没者に哀悼の意を表します。癒しの楽園は、どこにあるのかわからないが、いつか、生きとし生けるもの、死せるものが、癒しの楽園に辿りつけますように。 ☆☆☆注) 中島栄次郎は、小生の母の叔父になります。母と母の妹が、中島栄次郎の著作物を自費出版したのが、『中島栄次郎著作選』です。中島栄次郎は、京都大学の田辺元のもとで、『ニイチェの研究』をしていました。大学の同期には、 松下武雄、久野収がいました。1年上の先輩には野田又夫がおられ、 中島栄次郎のライバルでした。当時、毎日新聞の文芸評論を書いていました。そのときの担当記者が、井上靖でした。後に井上靖は小説家になられました。中島栄次郎は、『コギト』の同人で、伊東静雄、田中克己たちとも交流がありました。 中島栄次郎は、戦時中は、統制化にあり、自由にものを書くことができませんでした。中島栄次郎は、一兵卒として、フィリピンのルソン島マニラ郊外の山地で戦死しました。☆

003.中島栄次郎

20190326(火)Googleで、『中島栄次郎』を検索する

20190326(火)Googleで、『中島栄次郎』を検索する。

中島栄次郎のウィキペディア
②中島栄次郎著作選について、パート2(mixiの日記)
③「中島栄次郎」でブログ内を記事検索(mixiの日記)

そして、3ページ目に、
手ー井上靖文学館|井上靖のことば
がある。

『中島栄次郎著作選』のあとがきのP505~506に、
井上靖の「手」という詩が、載っている。

「手」

今日は誰も話しかけてくれるな。私は喪に服している。中島栄次郎が南の島で戦死してから三十七年、高安敬義が大陸で戦死してから、この方は三十八年であろうか。私より幾つか年少の二人の優れた友が、今暁、往年の若さのままで、私の書斎の戸を叩いてくれたのだ。
中島は大阪の新聞社の傍の小さい喫茶店で、カントの幾つかの言葉について語り、そして〟では〝と言って椅子をあとにひいた。高安の方は茨木の私の家で、哲学雑誌に載せた己が「倫論」の一部を読んで、そして暗い夜道を帰って行った。それが二人との別れ。それから茫々三十余年。
私は終日、秋の気の深まる音のようなものの中に身を置いている。二人の友が最期に上げたであろう一本の手を瞼に浮かべている。その手をめぐって何ものかが流れている。粒子のようなものが、霧のようなものが、しんしんと流れている。私は今日一日、思いをそこからはなさないでいたいのだ。私はいつか迂闊にも、二人の友の倍の年齢を生きてしまっている。

井上靖文学館のHPに、この詩を載せていただいて、ありがとうございます。


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「中島栄次郎」で、ブログ内の記事検索

「中島栄次郎」で、ブログ内の記事検索してみた。
45?個ぐらいの記事が出てきた。
もっと書こうと思うが、なかなか進まない。

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『中島栄次郎著作選』について、パート2

おふくろといとこが、中島栄次郎の供養のため、
『中島栄次郎著作選』の本を1993年11月に
自費出版して、25年、時間の流れは、はやい。
出版した当時は、奈良新聞などに載っていた。

当時、中島栄次郎や伊東静雄などの近代文学を研究している人がいて、
本を送ったりしていた。

もう、中島栄次郎を実際に会ったことのあるのは、
おふくろ、ぐらいなのかなあ?

この本は、非売品で、本のISBNコードがないので、
中島栄次郎についての、幻の本で、認知がひろがらなかったのかも?

おふくろと、いとこは、あちこちの図書館に献本している。

『中島栄次郎著作選』の本のある大学図書館は、現在、38大学です。
最近、いとこが、頑張って、増えました。

国立国会図書館サーチ

近代文学や哲学の研究の方は、中島栄次郎のことを
書いていただければ、幸甚に存じます。











中島家の墓じまい

2018年4月14日(土)曇り後雨
中島家の墓じまいを行った。
昼の12時15分に、近鉄上六に親戚、待ち合わせ。
午後1時半ごろから、永代供養墓に骨などを移し、
お経をあげてもらって、焼香した。
午後4時から、懐石料理で、会食。

お墓がなくなって、少し、寂しい。

中島家のお墓

昨日、名古屋のいとこが、来た。

中島家のお墓の状態と永代供養について、お寺に行ったそうだ。

奈良の家で、いとこと、中島家のお墓について、話をし、

来年の春ごろに、中島家のお墓を永代供養にするようになった。

中島家のお墓は、焼夷弾を受けて、ひびが入っている。

中島家の人は、祖母で、たえている。

田中克己は、お墓の前で、旧制大阪高等学校の校歌を歌ったそうだ。

毎年、施餓鬼供養にいってたが、寂しく、なる。

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